Saturday, October 13, 2018

プロージェクトのアウトライン

 1881年において、北海道開拓使館黒田清隆(くろだきよたか)は北海道の産業化に対して、「今日の北海道は昨日の蝦夷ならずや」と言った。1869年から約1920年にわたって、日本の石炭産業は北海道の開拓や工業化に大変な役割を果たして、これをプロージェクトのために研究するつもり。明治政府は北海道では石炭を発見した直後、アメリカ人のアドバイザーと一緒に炭鉱を開発させるようにした。そのせいか、北海道の石炭産業は19世紀末期内日本の二番目の最大の石炭生産者で、前に述べた通り、鉄道や汽船などの産業は発展して、英国やアメリカとの貿易も行った。北海道の石炭産業は明治時代の急速な進歩を代表するに違いない。しかし、その裏、色々な争いや社会的な困難もあった。私はこのプロージェクトのために、北海道の石炭産業にある三つの団体や関する人物を研究するしたいと思う。この団体は開拓使、集治監 (刑務所の産炭)、北海道炭礦鉄道会社(北炭)である。

 まず、1869年から1882年にわたって開拓使はハーハード卒業の技術者ベンジャミン・スミス・ライマンと共に北海道の炭鉱を設置した。開拓使は1882年において払下げ事件のせいで解散した後、北海道の集治監は福岡出身の明治官僚月形潔 (つきがたきよし)によって設置されて、1888年から北炭と競って始めた。しかし、財政難のせいで、北海道の集治監は1900年の頃北炭によって倒れた。そして、1905年から、北炭の井上角五郎(いのうえかくごろう)は日本海軍と一緒に英国との貿易を行って始めた。三つの団体の成功だけではなく、その中にある争いとか困難は北海道の開拓にどんな影響を与えたか読者に伝いたいと思う。そして、現在においてこれらの団体や人物に対する記憶も研究するに値すると思う。明治時代は進歩の時代だけれど、色々な争いも含めた時代なのではないだろうか。北海道の石炭産業を研究したら、私たちが明治時代をもっと分かるようになれると思う。